宮部康弘OFFICIAL BLOG
売れない保険営業マンがある学びに出会い
人生が好転したブログ ~保険営業のあなたに、少し勇気が出る話~
SCROLLAbout
真っ黒のスケジュール帳で土日なし、
売れない保険営業マンから
トップ・オブ・ザ・テーブル
になれた私のプロフィール
「げっ!断られた・・・」
「よしっ次!・・・ん?留守電・・・」
「よしっ次!・・・また留守電・・・」
「今週もスケジュール帳は真っ黒・・・契約なし」
「なんであの人は毎週契約獲れるんだろう・・・悪いことしてるんじゃ??www・・・
(俺。営業向いてないかも・・・)
いやっ俺はできる!次っ!!
・・・という「勢い強め」の売れない保険営業マンを8年ほど続けました。
私のブログを覗いていただき、ありがとうございます。
株式会社南星の代表取締役 宮部康弘と申します。好きな言葉は「調和」です。趣味は「ゴルフ」。これまで「あ!わかった・・・」「・・・なんか違う」を100回くらい繰り返しています。
我が家にはネコが1匹います。名前は「みやべ れんこん(♀)」です。家族からは「れんちゃ~ん」と呼ばれて可愛がられたり「れんこ!」と呼ばれて怒られたりしています。朝から書斎で仕事をしていると気まぐれで膝の上にちょこん、と上目使いで乗ってきます。とても可愛いです。でもナデナデし過ぎると「ガブッ!!」「ぷいっ!」ってなります。そして、おしりをフリフリさせて去ってゆきます。最近、ペットってスゴいな~、と思います。そこに居るだけで私を癒やすチカラを持っているからです。

今回はわたしの半生を振返りつつ、
ブログを始めた理由、売れない営業マンからMDRT会員に至った経緯などをプロフィールとして書かせていただきます。
乱文、ご容赦ください。
けっこうな長文ですし失敗ばかりの人生ですので、興味の無い方は読み飛ばしていただければと思います。
少し興味がある方は「へ~、こんなやつでもMDRT会員になれるんだ~」という動物園のお猿さんを見る感覚で読んでいただければ幸いです。
CONTENTS

TOPICS01
宮部康弘とはどんな人間?
あらためまして、元売れない保険営業マンの宮部康弘です。
今、経営している株式会社南星は保険営業時代のお客様です。保険営業マンが突然会社の後継者となる私の少しユニークな事業承継の話はこちらの本で紹介しています。
↓
廃業寸前の会社を打ち出の小槌に変えるオーナー社長の最強引退術 | 宮部 康弘 |本 | 通販 | Amazon
1972年生まれ、妻、子ども3人(♂)、癒やしの達人ネコのれんちゃんが家族構成です。

起床時間は5時。顔も洗わず豆から挽いたこだわりのコーヒーを入れ、寝ぐせ全開の頭でチョコを1欠片食べながら書斎でぼーーーっとする時間が大好きです。
継続力はありますが瞬発力はありません。なので生命保険社内短期コンテスト!なるものがとても苦手で始まった瞬間から入賞はあきらめていました。
目標設定も苦手です。自分のモチベーションを上げる工夫を色々試しましたが全然上がりませんでした。最近、その理由が分かりましたが、長くなりますので別の機会に書きたいと思います。
と、あらためて営業マンに向いていないのかな~、よく20年以上も続けたな~と振返りながら寝ぐせ頭でプロフィールを書いています。

TOPICS02
今の仕事
弊社は創業74年目を迎える会社です。
元々は「モノづくり」の製造業(半導体、林業機械など)でしたが、
先代社長「あなたはモノづくりしたことないでしょ!」
私「へいっ!まったくわかりません!」
という事で、私に譲る前に全て売却してしまいました。
残ったのはいくつかの不動産と子会社。当初の仕事はその後片付けと不動産運用でした。
「頭を下げること」と「資産運用」は保険営業時代に学びましたので結構役に立ちました。
現在は不動産運用の他に「LEADERS PROJECT(リーダースプロジェクト)」と称して
後継者を目指すコース
↓
Re:Leaders | 「転職先、社長」
なりたい自分を発見するコース
↓
Re:Leaders | 「自分が分かると未来が変わる」~自分を見つめる3日間
の2つのカリキュラムを提供しています。

TOPICS03
保険営業と不安な日々
「げっ!また断られた・・・今週もスケジュールが真っ黒だな~・・・よくがんばった俺!でも契約なし!」
という営業人生を8年ほど続けたことは冒頭に書きました。
ベースマーケット(知り合い)も掘り尽くした2年目、子どもが2人(今は3人)住宅ローンもあって毎月23万円ほどの生活費はかかっていました。家庭に回せるお金は営業経費(車両代、駐車場代、携帯代、わずかな交際費)を引いたら18万円前後。収支はマイナス。貯金は200万円ほど。
「あ~、あと3年で貯金が底つくなぁ~・・・バイトでもするか~・・・」
この頃の私の頭は「どうしよう・・・」✕10、000回の日々。

住宅ローンがタップリ残っているマイホームを見る度に胃が痛くなり、リビングに居る時間そのものがプレッシャーに感じていました。
自分をなだめる為に夜遅くまで会社。そして帰るとスヤスヤと寝ている子ども。サラサラした髪をなでると胸がギュウと締めつけられ、目頭が熱くなる夜もありました。
セミナー、職域まわり、紹介キャンペーン、テレアポ、飛込み。でも、結果につながりません。
「どうしよう・・・」
もがけばもがくほど・・・。泥沼という言葉がぴったしカンカンでした(古っ💦)
営業所長「宮部くん、今週は契約あるの?」
宮部くん「はい、2件予定があります!」
営業所長「おっいいね~。頑張ってね」
宮部くん「はい!(ウソだけど・・・)」
「貯金が底をつく」まで・・・焦りと不安が交差する2年目でした。

TOPICS04
キレイな星空と土砂降りの心
保険営業マンとして3年目に入り私はある異業種交流会に入会していました。
先輩「宮部くんも社長との人脈広げた方がいいよ~」
宮部くん「そうですね・・・お金はどのくらいかかりますか?」
先輩「年会費18万円であとは飲み代だね!」
当時、子どもの学資保険を解約して営業経費に充てている状態でした。年会費18万円はかなり高額です。しかし、このままでは状況は変わらない。迷いに迷い入会を決意しました。
先輩「宮部くん、入会おめでとう!あ、それといきなり保険の話はマズいよ!2年もすれば社長たちから相談されるからそれまでがんばってね!」
宮部くん「・・・は?」
・・・年会費を無駄にはできない!と後には引けず。スケジュール帳は異業種交流会の活動も入り、ますます真っ黒になり、飲み代という出費モンスターをどうやって回避するのか知恵を絞る日々がスタートしました。
異業種交流会3年目の頃、私は副委員長という役職を受けていました。保険契約も少しはもらえるようになっていましたが、度々財布をモンスターに襲われ収支マイナスは継続中でした。
そして年末の寒い夜。
「千円・・・だな」
「代行は使えないな、歩くか・・・」
当時、キャッシュカードで1万円を下ろす事ができず、財布にはいつも5千円。しかし、忘年会というモンスターはなかなか回避できず、容赦なく毎回4千ポイントの会心の一撃で大ダメージ。年末の私の財布は瀕死状態でした。
(だ、誰か・・・ホイミを・・・!Σ(×_×;)!)
歩くと我が家まで1時間ほどかかる距離。
「すみません、千円で走れる所までお願いします」
と、運転手さんの顔色をうかがいタクシーに乗り込み、だいたい半分くらいのところで下車。それから約30分歩いて帰っていました。
「う~寒っ!」
ある夜、月の光もない真っ黒な河川敷を歩いていると、目の前に空気のゆらめきなのか、明るさが微妙に変化する満天の星空がありました。

「ほ~、めちゃくちゃキレイだな~」
宇宙の広さに心を救われつつ
「・・・」
「オレ、何やってんだろ?」
「・・・」
ワン!ワン!!ウ~~ (゚ロ゚屮)屮 ビクッ!
(犬に吠えられ足早に立ち去る怪しいコート姿の男)
と、まあこのような感じで時間だけが過ぎていきました。
なぜ、私は結果を出せなかったのでしょうか?
スケジュールは真っ黒、土日なしで働いているのに・・・
この答えの前に少し私の生い立ちに触れさせて下さい。

TOPICS05
私の半生
5.1幼少期のいじめと離婚
父「おまえ、何様や!いちいちうるさかった!!(熊本弁)」
(バシッ!)
母「なんばすっとね!あんたが@#%&@#%&でしょ!(熊本弁)」
(ガッシャーン!!)
「@#$%&`#$%&!!」
(バタン!←父が家を出る音)
このやり取りを私は弟と部屋の片隅で肩を寄せて震えながら見ていました。
号泣しながら畳の上に散乱した料理や割れた皿などを片づける母。
「おかあさん・・・」
「危なかけん、あっち行っとって!」
「うん・・・」
私が11歳、弟が9歳の時に両親は離婚、その後母に連れられ小さいアパートに引っ越しました。その時に私に悲しみはなく、逆に嬉しかった感情を覚えています。
「これでおかあさんをいじめる奴がいなくなる」
「これであいつらから離れられる」
あいつらというのは当時の同級生たちで、私は小学校3年生の頃からいじめに合っていました。細かい記憶はありませんが登校する15分の道のりがとてもイヤだったのと弟の「お兄ちゃん」という明るい声が唯一の心の支えでした。
休み時間は誰も話しかけてくれないので私は机で寝たフリをしていました。変なあだ名で呼ばれていましたが良く覚えていません。
母はその学校で私がいじめられていた事を全く知らなかったそうです。子どもながらに親に心配をかけたくない、という思いがあったのかも知れません。
「人が怖い」
この感情だけが強く残る幼少期でした。
5.2救ってくれた恩人
「人が怖い」私は転校しても新しいクラスにも馴染む事ができず結局いじめられグループに入る事になりました。自分以外にいじめられている人が居てくれたので孤独感は以前の学校より感じませんでした。
「おい、こいつとケンカしろ!」
「オレがいいと言うまで動くな!」
などなど。しかし、これが学校で問題となり母も知る事になります。そして、私を鍛えようと「空手」を習わせました。その時の先生が最初の恩人となります。
当時の私は私より弱い人をいじめていました。その男の子は障害を持っていました。ズボンを下げると泣く彼を見て笑うことで自尊心を保っていました。
そして、それが空手の先生の耳に入り・・・
バッゴーーーーン!!(強烈なビンタ)
私は1メートルほど吹き飛び壁にぶつかりました。
「おまえは自分が何をしているのか分かっているか!!」(涙目の先生)
初めての感覚でした。ビンタされた頬ではなく、言葉で表現するのはとても難しいですが、胸のあたりがカーっと熱くなり、涙が溢れ、嗚咽しながら生まれて初めて心から「ご、ごめんなさい」と言ったのを覚えています。
今思い返すと初めて他人から受けた「愛の鞭」であったと思います。
「人が怖い」と思っていた私に少しだけ「人は優しい」という事を感じさせる出来事でした。
5.3柔道から学んだ事
中学生になり母の勧めで柔道部に入りました。毎朝6:00に体育館行き、先輩たちが来る前に準備をするのが1年生の役割でした。たまに寝坊すれば・・・
M先生「はい ミヤベくん寝技の練習~、キュッ(絞め技)」
ミヤベくん「(@×@)ポテーン(絞め技で落ちる音)」
※落ちるとは気絶する事です。
同級生は中体連(全国)で優勝するほどの強豪校でしたので練習はとても厳しく、朝練、放課後は筋トレ、土日は遠征(練習試合)。休みはテスト前、盆と正月の数日。私は入部してすぐ柔道が嫌いになりました。
2年生の頃「もう限界!」と母をなんとか説得し、退部届を提出しました。M先生はそれを受取り・・・
M先生「はい ミヤベくん寝技の練習~、キュッ(絞め技)」
ミヤベくん「(@×@)ポテーン(絞め技で落ちる音)」
※落ちるとは気絶する事です。
地獄の日々は続くのでした。
更にもう一つとてもイヤな事がありました。
それは、野良犬くんたちでした🐾冬の朝5:30は真っ暗です。ただでさえ怖いのに・・・。私は度々追いかけられており、もうそれはそれはビクビクしながら自転車を漕ぎ体育館に向かっていました。
「げっ!いた!!」 (@_@;)

そろ~っと・・・(私は何もしませんよ~、🐾くんは大好きですからね~、味方ですよ~)
「ウウ~ ウォン!ウォオン!!」
ギャーーーーーーーーーーーーーーーー wwwww(┛〃° Д°)┛
その時のペダルの回転速度は競輪選手に匹敵したのではないかと思います。
と、まあこんな感じで3年間が過ぎ柔道で私が学んだ事は
「人は嫌いなことは伸びない」
でした。
しかし、柔道は全く強くなれませんでしたが、他に沢山のものを与えてくれました。
礼儀
負けるくやしさ
勝つ喜び
仲間のやさしさ
社会の厳しさ
目上の人への敬い
後輩への思いやり
などなど沢山いただきました。それらは私に良い影響を与え、心の氷?みたいなものが少しづつとけ、クラスでも少人数ですが仲の良い友達を作る事ができました。そして、もういじめられる事はありませんでした。
毎朝早起きをし、弁当を作り、送り出してくれた母には心より感謝しています。柔道に行きたくないオーラ全開で辛辣な言葉を浴びせる思春期の私をたくさんの愛情で支えていただきました。この3年間がなければ今の私は想像もできません。
5.4高校生
高校は私の学力で行ける所で制服は「学ラン」という条件で探し、とある私立の高校に無事合格しました。
当時、流行っていたビーバップハイスクールという漫画の主人公トオルに憧れていた私は中学3年間の坊主頭のうっぷんを晴らすべく、髪を伸ばし、かっこいい学ランを着て、がに股で自転車を漕ぐ、という夢の高校生活を描いていました。
母「やすひろ(私の名前) 高校から制服の案内がきとるよ」
やすひろ「あ~適当に注文しとって~」(どうせその制服は着ないからね~♪)
母「なんか、サイズ取るから学校に行かなんらいしいよ」
私は学ランのカタログをウキウキして見ながら「面倒くさ!」と母の目も見ずに答えました。
「ん~どうしよっかな~ この短ランいいね~♪ やっぱズボンはこれからバギーだな♪♪」
そして着るつもりのない制服のサイズを測りに、母に連れられ足取り重く会場へ向かいました。確か体育館だったと思いますが、中は沢山の生徒でガヤガヤしていました。
私はそこで生涯一番驚くことになります。
母「ほ~ こらシャレとんね~ 学ランじゃなかとたい」
!?
(⦿_⦿)
ゴシゴシ(目をこする音)
(⦿_⦿)
「ぶ、ブレザー・・・」
そこには誇らしげに制服を着たのっぺらぼうのマネキンがいました。
(なに?このあずき色のネクタイ・・・)
その高校は私の学年よりブレザーを採用。
放心状態の私は業者の人からテキパキとサイズを測られ、3年生でも着れるようにとブカブカの制服で変な色のネクタイに首を絞められ入学式を迎えるのでした。

これからはパソコンの時代、と誰からか言われた私はプログラミングを習う学科を選んでいました。私の記憶にある3年間で取得した最高の技術は
①ブラウン管式テレビ風のモニターに何らかの数値をどっかに入力
②鍵付き個室にある、背丈ほどあるごっつい機械が自動でその数値を計算(足し算とかけ算の組み合わせだったような・・・)
③めっちゃ音がうるさいプリンターがでっかい紙にその答えを出力
というものでした。
「ほ~・・・これって・・・」
「 凄いのか? (´・ω・`)?」
結局、自分が何をやっていてこれが将来の何の役に立つのか分からないまま卒業式を迎えました。

5.5楽園
付属高校だったので、私はそのままエスカレーター式で理系大学へと進学しました。一応受験はあったと思います。2年生までは毎日授業があり単位を取るのに必死でしたが、3,4年生の頃はとても自由でまさに楽園でした。
ピカピカ✨に磨いた、エアコン不全の愛車に乗って、森高千里とBZの歌に包まれながらドライブするのが大好きでした。その幸せな時間を与えてくれる愛車を動かすためにピザの配達をしていました。あとは単位を取るだけの目的で授業に出席していました。
4年生の卒業研究で
私「先生!こんな数値が出ました!!」
先生「お~、これは興味深い数値が出たな!早速、検証だ!」
私が所属していたのは「ディーゼルエンジン新吸気孔によるなんたらかんたら・・・」という研究をしている所でした。
研究の概要は・・・
①ディーゼルエンジンの横に穴を開け、強制的に空気を送り込む
②不完全燃焼の燃料をその空気で再度燃やし完全燃焼
エンジンの出力アップと排気ガスの低減を狙う画期的な研究でした。
私「先生!排気ガス成分がなんか、こう・・・薄くなっている気がします!」
私「先生!エンジンの出力はなんか、こう・・・下がっている気がします!」
数ヶ月後・・・
そりゃエンジンに穴開ければ出力下がるっしょ!てか、排気ガスが薄くなったの空気送り込んだからじゃね?ww
という曖昧な検証結果が出て、私の4年間の集大成、卒業研究は終わり、やっぱり自分が何をやっていてこれが将来の何の役に立つのか分からないまま卒業式を迎えました。

5.6就職と過信
バブル経済破綻後の1994年。就職氷河期と呼ばれる時代でした。大学からの流れで私は車の整備士を希望し就活を始めましたが、円高の波により車業界は不況。
面接担当官「宮部さんは整備士希望ですか?」
宮部さん「はい!大学4年間でそれはもうかなり鍛えられましたので御社の・・・」
面接担当官「整備士はもう足りてます。営業はどうですか?」
という具合でどの会社も売上を伸ばすための営業マンを採用したい、という意向でした。
まあ、別にいいか・・・と大学4年間の経験をあっさり捨て内定をいただくことができました。
空手の恩師「ほ~、車の営業マンばするとね?」
私「はい、軽自動車を販売するみたいです」
空手の恩師「ふ~ん・・・どうせ売るならもっとデカい物売ったら?」
という事でサクっと内定を断り、恩師の紹介で地元の住宅会社に入社。
私の営業人生がスタートしました。
当時はブラック企業という言葉はありません。勢い強めの住宅会社で私は朝から晩まで働き、残業は当たり前、丸1日休めるのは月に2~3日でした。土日は住宅展示場で待機し、見込み客が来場すればどこまでもついて行く誘導ミサイル型営業でした。
(来場されたお客様のご自宅)
お客様「宮部さん、もう分かりました。買います・・・。」
私「ありがとうございます!では、朝9:00に契約のお迎えに伺います!」
お客様「えっ・・・いやちょっと待って。だってもう夜中の2:00ですよ」
朝から社長が怒鳴り散らし、能力が開発されるらしい音声を背筋を伸ばして聞かされ、電話のベルが2回なると上司から「早よ電話出らんか~!!」と灰皿(アルミ製)が飛んでくるコテコテの営業会社の中で私はスクスク育ち、入社3年目からトップセールスとなっていました。
「ウソも方便」
これが営業の秘訣でした。
入社5年目、私は係長として5人の部下を引き連れ、あいかわらずの誘導ミサイル型営業でトップを走り続けていました。
私「おい!まだお客様の案内は取れんとか!」
部下「はい、まだです・・・」
私「じゃあ次!・・・次!・・・次!!」
成績が上がらない部下を助手席に乗せ強制的に飛込み営業をさせる「オラオラ」と呼ばれた手法があり、当時、チーム成績もトップであった私はそのプライドを守るため、夜遅くまで部下をボロボロになるまで引きずり回していました。
そんなある日、少し雰囲気が違う見込み客が来場。
光沢のあるスーツに少し派手目のネクタイ、ピカピカの革靴と鞄、外車からさっと降りてくる姿に私は一瞬、見とれてしまいました。
外車の男「あなたが宮部さんですか?」
私「はい・・・どちら様ですか?」
外車の男「あなたの将来についてご提案があります」
その人は某保険会社の営業所長でリクルートが仕事という事でした。
私「ファイナンシャルプランナー・・・」
営業所長「そうです。あなたもこの業界で自分の力を試してみませんか?」
住宅営業に特に不満はない、という事で1度断りました。しかし、私の頭の中には「フルコミッション、営業スタイルは自由」という言葉がグルグルと回り続けていました。
当時の私はとても威張っていました。20代でトップセールス、年収も1,000万円を超え、携帯、車は会社から貸与されており、外見はニコニコしていましたが、内心はとても傲慢であったと思います。周囲への感謝の気持ちもなく、トップセールスである事は全て自分の力と過信していました。
そんな私を見抜いたのか、その後も度々会っていた営業所長は私にこう言います。
「宮部さん、あなたはもったいない」
傲慢な私にはその言葉がとても心地よく聞こえ結局、家族や周囲の反対を押し切り、タクシー代も払えなくなる人生を選択するのでした。

TOPICS06
衝撃の気づきとMDRT登録
いかがでしょう?私が真っ黒な手帳を片手に売れない営業マンを8年も続けた理由が何となく感じていただけたでしょうか?
誘導ミサイル型営業が全てに通用すると過信し、お客様に寄り添う事ができない私は売れなくて当然であったと思います。
そして、私にその理由に気づく2つの出来事が起きます。
保険業界7年目の私は今所属している代理店に転職をし、相変わらず売れない営業マンを継続中でした。そして、ある土曜日の夜の事です。
私「行ってきま~す」
凄い先輩「おい、宮部 そんなに資料抱えてどこ行くの?」
私「え・・・お客様のところですが」
凄い先輩「そのお客様との面談は何回目?」
私「今日が初めてですが・・・」
私は紙袋に分厚い資料をパンパンに入れていました。その時の営業スタイルはお客様の年金、医療、介護、死亡に対する不安を資料を見せて煽ぎまくり、断り文句を潰していき契約まで持って行く、という住宅営業スタイルのままでした。
そんな私を見て、先輩はイソップ物語の「北風と太陽」の話をしてくれました。
イソップ物語 北風と太陽
↓
【絵本】北風と太陽(きたかぜとたいよう)【読み聞かせ】イソップ童話
先輩はお客様の断り文句を潰すため、資料をどんどん分厚くしている私を見抜いてこの例え話をしてくれたと思います。
(!?・・・北風と同じ事をしてる)
(オレはとんでもない間違いをしていたのかも・・・)
自分がお客様を怖がっている事、そしてそれが更にお客様との溝を深めている事を指摘され、頭をハンマーで殴られた衝撃を受けました。
呆然としました。まるで目的地と逆方向の新幹線に乗っている感覚でした。
(太陽のような営業って・・・)
しかし、人は急には変われません。私は自分の営業スタイルに疑問を持ちながらも分厚い資料を手放すことができない日々が続きました。
そしてある日、もう一つの出来事が起きます。
事務の女性「宮部さん、お客様の対応お願いできますか?」
保険相談を希望される方が飛込みで来社されていました。私は困惑しました。
(どうしよう・・・資料は車・・・取りに行くには時間がかかるし・・・)
お客様を怖がっていた私は資料が手元にないのはとても不安でした。しかし、他に頼める人がおらず渋々依頼を受けました。
(何を話せばいい?何を伝えればいい?)
一通り挨拶も済ませ
「あの、今日はどうされましたか?」
この一言でお客様は堰を切ったように加入している保険に対する不安、保険担当者のへの不満も交えながら一気に話されました。資料がない私はただひたすら相づちをうち、聞くだけでした。
そして、
「宮部さん、この保険はどう思いますか?」
と家族全員分の保険証券が目の前に並びました。
衝撃でした。なぜならこれまで分厚い資料で喉がカラカラになるまで話しても、保険証券がこのように目の前に並ぶ事はなかったからです。
(こんな簡単に・・・)
これが、私が初めて体験した「聴く営業」でした。
それから私は少しずつ資料を手放し、数ヶ月後にはA4の紙とボールペンのみでお客様の前に座る事ができるようになりました。そして、翌年にはファーストカマーとして緑の登録証を首に下げ、MDRT世界大会に参加している自分がいました。


TOPICS07
私がブログを始めた理由
幼少期の出来事で人に心を開くことが苦手だった私の営業人生をかけ足で書かせて頂きました。
私が成功できたキーワードは「太陽のような営業」でした。もっと具体的に言いますと
「傾聴」と「共感」
とても簡単な事ですが、心を開く事が苦手であった私はなかなか思うようにいきませんでした。しかし、この姿勢を保つ努力をし続けたことで、ご紹介だけで年間保険料2億円以上お預かりできるようになり、土日もゆっくりと過ごす事ができるようになりました。
売れないのは方法を知らないだけ、売れる人には理由がある。
という事を私の体験からメッセージとさせて頂きました。
このブログが
頑張っているあなたへのエールとなり、
「少し勇気が出た」
と感じてもらえれば、私の失敗ばかりの営業人生も意味があるかな、と思っています。
テーマとしては私の経験を
- ・営業に役立つ「知識」
- ・営業に役立つ「心構え」
- ・営業に役立つ「技術」
- ・営業に役立つ「習慣」
の4つに分け書いています。あなたが関心のあるテーマからお読み頂ければと思います。
また、このブログでは営業から経営者になってみて気づいた事なども書きたいと思います。
それがあなたの
「法人保険チャレンジへの少しの勇気」
となればとても嬉しいです。
乱文の長文、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
あなたはきっと大丈夫。
あなたの成功と幸せを心よりお祈りして、私のプロフィールとさせて頂きます。
経歴・実績
| 2000年4月 | 保険会社入社 |
|---|---|
| 2009年 | MDRT初登録 |
| 2018年 | MDRT終身会員(COT登録4回、TOT登録1回) |
| 2018年 | 株式会社南星 代表取締役就任(現職) |
